231 実質賃金低下の謎 - 物価指数と実質値の関係

OECDのデータでは日本の平均給与の実質値は横ばい傾向です。一方で、毎月勤労統計調査の実質賃金指数は低下傾向が続いているようです。何故統計によって傾向が異なるのかを検証してみます。

1. 日本の実質賃金指数

前回は、家計支出の長期データを眺めてみました。
非消費支出や生活必須の支出が増えたり、減らせない中、切り詰められるものはできるだけ切り詰めているような家計の姿が窺えました。
世帯主の所得低下を含め、家計収入の減少が大きな要因として考えられそうですね。

以前、平均給与名目値実質値についてご紹介しました。
 参考記事: GDPと給与の名目と実質

OECDのデータでは、平均給与の実質値は停滞が続いています。
一方で、実質賃金は下がり続けているという統計データもあるようです。

実質賃金は下がっているのでしょうか?停滞が続いているだけなのでしょうか?
今回は実質賃金低下の謎について考えてみたいと思います。

実質賃金低下が指摘されているのは毎月勤労統計調査です。
まずはこのデータから眺めてみましょう。

実質賃金指数 年平均 調査産業計・製造業

図1 実質賃金指数 年平均 調査産業計・製造業
(毎月勤労統計調査 第42表 より)

図1は、毎月勤労統計調査にて公表されている実質賃金指数のグラフです。
2015年を基準(100)とした指数として表現されています。
事業所規模が5人以上30人以上、産業区分は調査産業計製造業のデータが集計されています。
2015年基準の指数ですので、2015年の数値に対して何倍かという数値ですね。

製造業の方が調査産業計よりも下に位置しているので、製造業の方が賃金が安いように見えるのですが、そういったグラフではありません。
2015年で両者が100となる指数で表現されている点に注意が必要です。
製造業の方が上昇傾向で実質賃金が推移していて、調査産業計が1997年を境に実質賃金が下がり続けているという事を意味しています。

実質賃金指数 年平均 調査産業計・製造業

図2 実質賃金指数 年平均 調査産業計・製造業 1990年基準
(毎月勤労統計調査 より)

図2は図1の基準年を1990年に変更したものです。
基準年としたい年の数値で各年の数値を割ると、新しい基準年による指数に再計算できます。
こちらの方が、2015年基準よりも見やすいかもしれませんね。

図2を見て明らかなように、製造業はやや上昇傾向から停滞といった推移に対して、調査産業計は1997年をピークにして減少傾向が続いています。

日本の製造業は小規模事業者の淘汰が進み、経済規模を縮小しながらも生産性が高まっている状況です。
 参考記事: 日本の製造業で起こっている事

実質賃金のこの上昇も、そういった製造業内部の変化を伴っていると見た方が良いかもしれません。

気になるのは、調査産業計の推移です。
毎月勤労統計調査における記号の見方」によれば、この調査で対象としている産業はOECDと同様の「ISIC REV4」のうち農林水産業を除くすべての産業が含まれているようです。
対象範囲はOECDのデータとほぼ変わらないようですね。

2. OECDの実質平均給与

OECDで公表されている平均給与の実質値はどのような状況だったでしょうか。
以前ご紹介したグラフを振り返ってみましょう。

1人あたりGDP 平均給与 名目・実質

図3 日本 1人あたりGDP、平均給与 名目・実質 成長率
(OECD統計データ より)

図3はOECDのデータのうち、1人あたりGDP平均給与について、名目値実質値を1991年を基準とした倍率としたものです。
 参考記事: GDPと給与の名目と実質

OECDの平均給与のデータは、Average annual wagesの数値です。
名目値はCurrent prices、実質値はConstant pricesとなります。
OECDのデータは、GDPを構成する賃金(Wages and salaries)を雇用者数(Number of employees)で割り、パートタイム労働者がフルタイム働いたと見做した調整が行われた数値になります。

平均給与の実質値(緑)は多少のアップダウンがありながらも横ばい傾向が続いているようです。

日本の実質賃金は1997年から下がり続け、OECDのデータでは停滞が続いているだけに見えます。
なぜこの2つのデータは食い違うのでしょうか?

経済停滞と物価停滞が続く日本の指標について、実質化にバリエーションがあるという典型的な例だと思いますので、少し検証してみましょう。

3. 検証用データの妥当性確認

日本で労働者の給与水準を集計している統計はたくさんあり、それぞれで対象や定義などが異なります。
当ブログで良くご紹介しているのは、民間給与実態統計調査です。

平均給与 男女合計

図4 平均給与 男女合計 年齢階層別 1年勤続者
(民間給与実態統計調査 より)

図4が民間給与実態統計調査の平均給与の推移です。
各世代で1997年をピークにして、いったん減少し2009年を底にしてやや増加傾向です。
ただし、1997年の水準すら回復できていない状況ですね。
日本は高齢労働者や女性労働者が増えて平均値が下がっている側面もありますが、男性労働者自体も各世代で低所得化しています。
 参考記事: 豊かになれない日本の労働者

図4は、各年の平均給与を計算しただけですので、いわゆる名目値となります。
今回は、平均給与の名目値として、この民間給与実態統計調査の各世代合計値(黒線)のデータを用いてみます。

毎月勤労統計調査では、対象産業の平均賃金を消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)で実質化しているという事です。
実際に、平均給与を実質化し、基準年で100となる指数にして重ね合わせてみましょう。
実質値は、下記の通り簡単に計算できます。

実質値 = 名目値 ÷ 物価指数

実質賃金指数 年平均 平均給与との比較

図5 実質賃金指数 平均給与との比較

図5が、民間給与実態統計調査の平均給与を消費者物価指数で実質化した指数(赤)を、図1の実質賃金指数に重ね合わせたグラフです。
平均給与 名目(黒)も併記してあります。

平均給与の実質指数は、実質賃金指数とほぼ一致するという事がわかります。

毎月勤労統計調査の実質賃金指数は、この計算方法からすれば特に問題ないように見えますね。
平均給与との整合性も確認できました。

それでは、OECDのデータの方がおかしいのでしょうか?

4. 統計データの検証

今まで多くの経済統計データを扱う中で、日本の場合実質値を見る場合は特に注意が必要だと思います。
日本は、名目の経済指標が停滞しているうえ、物価指数も停滞しなおかつ指数同士の乖離が大きいからです。

実質化する場合の物価は、主にGDPデフレータ消費者物価指数が用いられます。
そして、それぞれの物価指数は、もう一段細分化された指数の総合値となります。
例えばGDPデフレータでは、民間最終消費支出、政府最終消費支出、総資本形成などのデフレータの総合値として表現されるわけです。
 参考記事: GDPデフレータにみる安い日本
 参考記事: 「良いものを安く」は正しいのか?

毎月勤労統計調査の実質化に用いられる物価指数は消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)です。
一方で、OECDの平均給与の実質化に用いられる物価指数は民間最終消費支出デフレータとなるようです。

日本 物価指数の比較

図6 日本 物価指数の比較

図6は、消費者物価指数(赤)と、GDPデフレータ(橙)、民間最終消費支出デフレータ(青)の比較です。
1994年を基準としています。
あえて日本の統計データを参照してみました。

同じ物価を示す指数でも、GDPデフレータは、消費者物価指数に対してかなり下振れしていますね。
しかもマイナス方向で落ち込んでいて基準年より小さい数値です。

民間最終消費支出デフレータはその中間的な水準です。

この3つの物価指数を用いて、改めて平均給与を実質化し、日本のデータ、OECDのデータと重ねてみましょう。

平均給与 実質値 実質化による比較

図7 平均給与 実質成長率 実質化による比較

図7が平均給与の実質値を1994年を基準とした指数として表現したグラフです。

各実質値は、平均給与(民間給与実態統計調査)の名目値を下記物価指数で割る事で実質化したものです。
A(赤) 消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)
B(青) 民間最終消費支出デフレータ
C(黄) GDPデフレータ

毎月勤労統計調査の実質賃金指数(緑)は、ほぼA(赤)と一致する事がわかります。
平均給与を消費者物価指数で実質化した数値です。
先ほどの図5で見た通りです。

一方、OECDの平均給与実質値(紫)は、ほぼB(青)と一致して横ばいです。
こちらも、OECDの定義通り民間最終消費支出デフレータで実質化したものです。

AとBは、元となる平均給与 名目値のデータは同じで、実質化の計算に使う物価指数が異なるだけですね。
それぞれの公表データともほぼ一致し、整合性がある事が確認できました。
つまり、日本の実質賃金指数と、OECDの平均給与実質値は、実質化する際の物価指数が異なるだけで、概ね矛盾しないという事が言えそうです。

逆に言えば、実質化する際の物価指数を何にするかで、これだけ数値が乖離するわけですね。
GDPデフレータを用いたC(黄)は上昇傾向ですらあります。

平均給与の実質化については、もう少し詳しく検証した結果も記事化しましたので、是非ご参照ください。
 参考記事: 平均給与の実質化

5. 給与の実質化における特徴

本来、実質化とは、名目値の成長度合いに対して、物価の上昇分を割り引き、数量的な変化を確認するために行われるものだと思います。
そのために、様々な取引から観測される価格の変動を物価指数に総合していき、名目値を物価指数で割る事で計算されるのが実質値ですね。

GDPや、GDPのうち生産面、支出面ではそれぞれの項目で物価指数が計算されていて、項目ごとに名目値、実質値、物価指数(デフレータ)がセットになって対応しています。
一方、賃金や営業余剰などの分配面では、それに対応した物価指数が存在しません。

賃金を実質化するには、どのように考えれば良いのでしょうか?
同じお給料だったとしても、物価が上がればそれだけ買えるものが少なくなります。
賃金を受け取るのは、消費者でもある労働者です。

したがって、消費に関する物価指数で実質化する事で実質賃金を評価するという事が行われていると推測できますね。
もっともらしい物価指数として毎月勤労統計調査では消費者物価指数が、OECDでは民間最終消費支出デフレータが用いられるのだと思います。

実質賃金(給与)の変化とは、消費者が購入できるモノやサービスの数量がどのように変化したかを数値化しようとする試みとなります。

日本は名目値自体が停滞しているのに加え、物価も停滞し、更に物価指数間での乖離があります。
このため、実質化に用いる指数によっては、実質値が下がっているようにも停滞しているようにも、上がっているようにすら見えるわけですね。

1人あたりGDPと平均給与についても、名目値では両者は停滞していますが、実質値は1人あたりGDPが成長していて、平均給与は停滞しています。
これも、実質化の際の物価指数の違いによる影響も大きいですね。
1人あたりGDPはもちろんGDPデフレータで実質化しているため、日本の場合は図7で見た通り消費者物価指数で実質化するよりも上振れする結果となります。

実質値の意味をよく理解したうえで、基準年に気を付ける事はもちろんですが、どのような物価指数を用いているかという事にも留意して統計データを眺めた方が良いように思います。

また、今回ご紹介したOECDのデータについては、パートタイム労働者がフルタイム働いたと見なした平均給与となっていますので、その違いによる影響などもありそうです。

皆さんはどのように考えますか?

参考:最新データ

(2023年12月追記)

7-9月期 実質賃金指数

図8 7-9月期 実質賃金指数

図8が最新の実質賃金指数のデータです。

7-9月期、就業形態計、調査産業計のグラフとなります。

5人以上の事業所規模でも、30人以上の事業所規模でも低下傾向が進んでいるようです。

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